コジマ・ムジカ・コレギア立ち上げ経由

昨夜の熱い弾き合い会に興奮して、そもそもの経由をお話したくなりました。コジマ・ムジカ・コレギア当初は「なにやこれ?」「舌を噛みそうだ」と不評の嵐でしたが、20年継続して「コジマムジカ」「ムジカコレギア」などと適度に簡略いただきつつも、市民権を得てきたかな、という感触です。ご愛顧ありがとうございます。「コジムジ」「ムジコレ」なんてのはまだ聞きませんが、、、

 

世渡りベタの見本のような小島秀夫、やるべき仕事はコツコツとこなすものの、社交や飲み会の類の苦手な職人肌の人ですが、かつて広響を応援くださっていた県庁の職員さま(現在は呉の教育長)に機会ある毎に叱咤激励されておりました。「おまえはな、広響のコンマスだけやってればいいってもんじゃないぞ」え=?どういうことですか?なんてやりとりがありました。「何かをしろ」という意味合いなのでしょう。ヒントはくださいません。そこでまずは自主公演リサイタルというものを実施してみました。それまでN響さん広響さんでゲスト扱いで仕事しておりましたし、リサイタルといっても区民センターの主催事業などに組み込んでいただいておりまして・・・自主公演なるもの、どこから手をつけてよいか?の状況でしたが。 印刷物もどこへどう頼んでよいかわからず、なんと当時ポスターチラシの類に60万くらい!!!かけてしまったり、今思えばバカな失敗もしております。息子がお腹にいる時分でしたが、練習の合間を縫って、ふたりでポスター貼りもいたしました。ともあれ50歳記念リサイタルをなんとか成功させまして、「じゃあ、次は?」ということで、このコンチェルト企画を考案しました。1992年の秋のことです。「コジマムジカコレギア」という名称については、当時いくつかまとめて要請があった県のコンサート用にとその職員の方(長谷川さま)と相談して命名しておりました。よって1992年発足とさせていただいております。

 

コンチェルト・・・小島秀夫は高校生時分に辻久子さんの代役で、広響の前身であるオーケストラとメンデルスゾーンの協奏曲を共演したといいます。当時の経験が後にオーケストラに魅せられる発端ともなる貴重な経験であったこと、まだ文化的には黎明期の戦後の広島ながら、広島音楽高校や当時の市民オーケストラに応援してもらったことで現在があると考え、故郷に恩返しの意味もあるそうです。そして優秀に育った生徒には協奏曲のチャンスを与えてやりたい、と望んでおりました。「教えて、うまくして、ステージを与えて」こそ、教育は完成すると考えておりました。既にその何年か前に「弓の会」というプライベートな教室主催として、広響さんを買って協奏曲の夕べを催したこともあったようです。

 

さて私・・・(妻)は売れないピアニストというより弾けないピアニスト、音大落ちこぼれ人間ではありますが、これでも夢に溢れた10代はありました。12歳のとき引越しに伴い新しく師事しました、当時山口県下の有名名教師、和田邦江女史。入門してまもなく「2台のピアノによる協奏曲の会」なるものが企画されており、私は見学するだけの身分でしたが、先輩たちが「戴冠式」「ショパン1番」「ベートーベン3番」などの名曲を弾かれ、本番前のそれこそ熱い弾き合い会に同席(するだけ)させていただいておりました。その時小学生だった方が後に「戸田弥生」さんというピアニストになられています。(多分)

 

特に芸大目指されていた高校生の先輩のショパンの1番には魅せられましたねえ、いやベートーベン3番も戴冠式もどれもこれも、当時の田舎少女の私には衝撃なんてものじゃなく!!! 夢にうつつに憧れたものです。その先輩が「戸島さん」と言われましたので、少し似た今の姓小島~気に入っていまして・・・ 

 

次回こそ!私も!と夢見たものの、その企画は1回限りで終わってしまいました・・・しかし県を代表するほどのやり手の和田先生でもオーケストラ共演は無理なようでしたが、ピアノの生徒としては落ちこぼれでも、先生に負けない企画をしてみようじゃないか!?・・・なんて強い意志はないですが、憧れは強かったので、無我夢中で企画してきました。自分はついに1度もステージに立てませんでしたが(今や立ちたくもないですが)100人~?それ以上もの子供たちをステージに送り出すことができました。

 

本望です。

 

今回は当時、憧れの「戴冠式」「ショパン1番」そしてそののちに第一の憧れだった「シューマン」と並び本望中の本望です。